昭和44年03月23日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれると言うが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断すな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 この45節をただ今奉読させて頂きますと、なぜここの所が分らせて頂かなければならんかというと、また分るだけではなくてここの所を身に付けて行かなければならんかと言うと、ひとつ戻った44節ですね、この44節を頂きますと、「狐狸でさえ神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」とあります。
 信心をしておれば、神になれ、神にまつられるということはない。ね、楽しみにというても、ほんとにそれが楽しみになる、なるような信心にならなければ、ただ信心さえしておれば神様になれる、信心さえしとれば、神にまつられるということはない。なるほどそれは子孫のものが、信心を手厚うして、ね、そして御霊の神、ね、御霊様にお祭りをしてくれるというような神じゃないと思う。ここで言う神と言うのは。
 神にまつられる。ね、わが心が神に向こうて行くのを信心というのぞ、と仰るようにわが心が神に向こうて行っておる状態、向こうて行っておるような信心をしなければね、ここに楽しみにと仰るけども、楽しみにはならんのです。信心しておって百万長者になることを楽しみにと、とたとえば言われてもです、は、いつかは百万長者になるじゃろう、いつかは百万長者になるじゃろうと言ったようなことでは、それはちょうど百万円の宝くじを買うて楽しむようなもんで、当てになるもんじゃないです。
 ではなくて、もう着々としてです、ね、さ、十万円貯まった二十万円貯まったと、ね、この調子でいきゃ百万長者にもなれるぞというところに、十万貯まった、二十万貯まったという楽しみがあるのです。そこのところができるから楽しみに信心しよと仰るが、楽しみで確かに信心さして頂くことが出来るのである。人間は万物の霊長なればとこう仰るが、ね、万物の霊長でなからなければ、人間でなからなければ、そういう神にまつられ神になるということはできん。
 だから人間の誰しもがそうかと言うとそうじゃない。なら信心をしておる人間なら誰でも神になれるかと言うとまたそうでもない。ね、所謂愈々わが心が神に向かうて行くということを、ね、楽しみ、45節にです身に徳が付くほどかがんで通れと、ね、先生と言われるようになる。ね、人間は身代がでけたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる、神信心して身に徳が付くほどかがんで通れと。ね、
 身に徳が付けば、もうこれは大丈夫と言うことはないということがここで分りますね。例え身に徳が付いて行ってもです、ね、頭を下げることを忘れる。ね、もう五十万貯まった、八十万貯まったからと言うて安心がでけんと言うのである。身に徳が付くほどかがんで通れと。いよいよここんところに信心の焦点を置かせて頂かなければならん。そこで世に三宝様を踏をむな、三宝様踏むな、三宝様踏むと目が潰れるというがと、三宝様と言うのは、穀物の意という。ね、
 私どもでも、よくそれを言われましたですね。ご飯をこぼしてそれを踏みつけたりすると目が潰れる、といわれて畳でも落ちたご飯でも拾うてから頂かせられました。穀物と言うのは一番大事なもの、言うならば、いわゆる三宝様である。いわゆる宝様である。それを段々信心して身に徳が付いてくるとね、分ってくる。身に徳が付いてくると例えて言うと、難儀なことがあると、困ったことだとこういうようなことが、困ったことではなくて、難儀なことではなくて、ね、それが宝にも見えてくるようになる。
 折角信心の目が開けてくると言うか、肉眼を置いて心眼の目が開けて来ておるのが、また、肉眼に戻ってしまう、ね。愈々肉眼を置いて心眼を開いて行くということ。ま、お徳を受けていくということなんですけれども、ね、それがたとえば開けて来ておってもです、三宝様を踏むと目が潰れる。心の目が開けて来よっても、信心の有り難さが段々分って来よっても、ね、そこに感ずる難儀、そこに感ずるま、嫌な問題、ね、
 ま痛い痒いから、人間関係の嫌なことから、ね、様々ございましょう。ね、歯がゆい思いをするとか、その人のために情けない思いをするとかと言ったようなことがありますけれども、そういうことをです、ね、踏みつけるようなことをする。たとえば腹がたったから、腹が立つからというてその腹の立ったことをむき出しにする。それではせっかくのその宝様を踏みつけることになる。
 どんなに歯がゆい思いをする、腹の立つ思いをするような場合であっても、どんなそれが嫌な問題であっても、一応その問題を問題としてそれを信心で頂いて行くということです。それを信心で頂いて行くと、それが宝様であったことが分るのである。それが大切なことであったということが分る。ね、そういう信心をさせて頂くところにです、信心の楽しみと言うのがでけてくるのじゃないでしょうか。
 そこに次に生まれてくる体験なんです。ね、言うならば難あって喜べ難はみかげということになるのです。それは難そのものは、ね、なかなか喜べませんけれども、ね、その何の為に信心が一段進められるというか、今まで分らなかった事が分るというか、ね、その事を通しておかげを受けて行く、だから難はみかげ即だから難はみかげと、ね、頂ける事がです歯がゆい事即おかげ、腹の立つこと即それをおかげだと。ね。
 腹の立つような問題をです、だからその腹の立つような問題をよう腹を立てて、そこでばらまいたらこれは三宝様を踏む事になる。そこを大事にしていくということがです、ね、いかに有難いことかという体験が、ははぁこの調子でいきゃ、ね、百万長者になれるぞと、いうならこの調子でいきゃ、成程神様になれるんだなぁ神にまつられるんだなぁという自信が付いてくる。自信と言うよりも楽しみが出来てくる。
 それをたとえばようやく少し貯まったかと思うとまた使うてしまうと言った様な失敗ばかりしておったんではです、神にまつられる、私は楽しみもあるもんじゃないとこう思いますね。45節の一番最後にです、ね、油断をすな慢心が出るとおかげを取り外すぞとこうあります。ね、折角貯めてきたおかげげをです、お徳をいわば取り外してしまう。折角開きかかった心の目をまた目が潰れるという、潰れてしまう。
 油断をすな、慢心が出るとおかげを取り外すぞと、だから慢心が出ると結局腹が立つということにもなります。腹立ちのま例えば元、ね、腹が立つということはね、あれはその腹が立つということのずうっと探ってみると、慢心ですよ。自分というものをぎりぎり見極めておると、自分というものがよく分ってくるとです、ね、たとえば顔に関わるようなことを言われてもです、腹が立たん。ね、
 それどころじゃなかろう、と分る。こげんして神様が、おかげを下さるというふうにですね、それをいわゆる謙虚な態度で受けられますから、腹が立ちません。腹が立つ原因は、必ず慢心。ですからここんところがね、たとえば油断をすなと仰るが、ね、自分がね、この頃よくもう気が短うなって腹ばっかり立つという時には、いよいよ慢心が募って来ておる時でありますから、用心しなければいけませんですね。
 これは腹が立つと言う事だけじゃない。万物の霊長なれば死したる後神にまつられ、神になる事を楽しみに信心せよと、私が言うのはま45節にまあそこここでは御座いますけれども申しました所ですね。そういう例えばははぁこの通りでいけば、神になれるぞという所謂心の中に感じられる、しかもそれがおかげになって見えてくる。成程この調子でいけば、神になる事がでけという楽しみを持った信心がでける訳です。
 ただ信心しとれば死んだ時に、神様にまつられると言った様なものではない。自分の心に、ね、少しづつでも神に向かう心が育って行きよる。だから楽しみなのだ。穀物などは実ってくれば来るほど自然にこう頭が下がる、ね。所が人間はここんところに自覚がない、今日申しました様な所に。自覚がないとですお金が貯まってくれば、貯まって来るほど頭が下がらんでしょうが。
 反対に頭が貯まってくれば貯まってくるほど上に頭が上がっていく。こころ辺のところをひとつ分らにゃいかん。身に徳を受けるとと仰る。身に徳を受けると自然に下がるのではなくてですね、反対に上に跳ね上がってくる。その人間の場合は。そこでよっぽどこの三宝様踏むなとか、ね、慢心が出るとおかげを落とすというところをひとつ思うておかんといけないことが分る。
 私はここんところをですね、御徳を受けて行けば行くほど頭が下がる。自分の信心の実が入ってくればくるほど、穀物と同じことで頭が下がるもんだとだと思った。そうじゃない。ここんとこに、がここに書いてございましょう。神信心して身に徳が付くほどかがんで通れと、はあ、心の中に有難いものが感じられる、は、だんだん自分に身に徳が付いて来よるなぁということが分る。それにおかげまでも伴うてくる。
 だから愈々かがんで通れと仰るその、いつもかがんで通る心がけというものが必要であることが分るでしょう。ほいでここんところは初めてこう頂いた。信心させてもらって徳が付きゃ、付くほどですね、徳が付けば付くほどかがんで通ると、あのかがんで通れじゃない、かがむもんだとこう思ったんです。だから徳者いかに徳者、自分が徳者のように言うておってもです、ね、
 ま横柄な事を言うたりしたりしておるのを見ると、あれはあんなふうなもんじゃないとこう思うとったけれどもです。確かに徳を受けておってもです、自分にその自覚がないと頭を下げる事を忘れる。ですからここん所をあの穀物やら、そういうものとは違う事をひとつ分らにゃいかん。もう自分がそこに自覚しておかんと、やりそこなうという事です。ですからそのことに非常に注意が必要、用心する。
 私は今日それを切実に思う事があるんですが、あの今日ですかあの教師会がございます。いつも二月越しぐらいにありますでしょう。でいつも若先生が参りますけれども、若先生があげんして足を悪うしておりますから、今度は私が行かなきゃならんだろうかと思うて、もう行きたくない。もう外に出たくない。ね、もう出来るだけここにおりたい。それはただ、私はよく今日思うてみたらね。
 ここでは皆んな私を当てにして皆が参って来る人達があるから、私はここに人が難儀が助かる事の為にでもここにおらなきゃならん。私がここにおりゃ人が助かるというだけじゃない。これはよくよく自分で考えてみたらですね、私が用心しよるとです。ここでなら絶対平身低頭しておくことが出来るけれど、降りるとこれはやっぱり、その油断が出る。そこんところを自分でようく分かってきたんです。
 会合なんかに出てから例えば、ま人が言いよんなさるとを聞いてからですね、可笑しゅうなってくる。言うなら鼻先で笑いたいごた感じがする。もうすでに慢心だ。ね、ははぁあん位な先生があん位なこつで、心で笑いたいごとある事が起こってくるとです。もう非常にそれが怖い。はあ私はね外へ出たがらん、私は外へ出らんのはね、そういう用心を神様まがさせて下さり。
 自分にもですあんに用心しておるんだなと自分で感じたです、今日は。これはね例えばあの柔道でもね、剣道でも同じだそうです。もう達人と言われるようになると非常に小心になるそうですよ。私が今達人になったわけでもなかろうけれども、非常に小心、皆さんが御承知のとおりです。あのもう私はあの信心のない人たちの中にはもう絶対ていうていいほど入って行ききらんです。もう本当にです。
 もう昔は商売人でそんな筈、むしろそげんとこに好んで入って行った私がです、もうこの頃は信心のない人の中には、ほんとに入っていけない。信心の薄い人んとこには入っていけない。それが例えばなら、剣道とかね、柔道なんかの達人と言われるほどしになると、たとえば柔道なら柔道をする人はもういつも用心が、用心しておるわけですね。決して寒いからと言って腕・道歩くことは絶対しないです。
 腕をつくらして行きよって後ろからはがいじめにばっとう抱きつかれたら、もうそれでおしまい。だからどんなに寒かっても手を出していくというような用心をしてるということです。そうしなければおられない。柔道が分ってくればくるほど。剣道でもそうです。剣道もいわば、もう段々達人、名人と言われるようになるとですね、こう道を歩いておってもね、決して早曲がりどんするようなことはないそうですよ。
 返って遠回りをする。こう道を回るでも、向こうから来るのがなにが出てくるやら、ぱっと、出会い頭に切りつかれるというようなことがある。だから遠回りをしておけば、向こうに人影が見えたり、人がおることが分るでしょう。そのくらいに用心を、いやしなきゃおられなくなってくるわけです。ある意味合いでその小心になるわけですね。私はそれと同じようなものを自分の上に感ずるです。
 だから信心のない人の所の中に行ったらもう縮こまってしまってから、用心しとる自分がおかしゅうぐらいになることがあるです。今あの歯医者さんなんかにまいって、もうあそこ十人も十五人も溜まっておられるとですね、もう隅の方でこうやって縮んで、物を言いたくないから誰か付いて行ってくれと、代わりにものを言うてくれる。そんなほんとですよ。言よったら言い損ないだんせんじゃろうかと言う様な気持ちが。
 これはもうほんとにそうです。私今日この御理解を頂いてそれを感じます。それはやはり自分の心に少しづつ信心が分っていきよる。身に徳を少しづつ受けて行きよる。受けて行きよるから、これは、ね、慢心でも起こしておかげを落とすようなことがあっちゃならんというその一生懸命の思いがです、自分を臆病にしたり、小心にしたりしていきよる。いわば用心深うなっていくわけですね。
 ここまで開いた心の目を、もう潰しちゃ勿体ない。ここまで頂いた信心をです、ね、無駄に粗末にしては勿体ない。これはやはり金を貯めて行く事の楽しみに人がですね、愈々けちん坊になって行くという事実があるでしょうが。同じ理屈ですここんところ教祖様は教えて、ここんところで教えておられることを今日ここに、身に徳が付くほど身に徳が付くなら自分自然と頭が下がる筈じゃと思いよったです、今までは。
 ところが付くほどかがんで通れという用心の、ここにことを書いておられ、教えておられますでしょう。だからそういうような信心が段々身に付いてくるようなことになってくるから、万物の霊長としての自覚もできると同時に、死したる後、この調子でいきゃ神に祀られるぞ、この調子でいきゃ神になることが出来るぞという、私は楽しみの信心が、所謂44節にあるそれが頂ける様になるとこう思うのです。
 今日は春の御霊のお祭りです。ま、ちなんで神様はここんところを下さったんだとこう思うんですけれども、ね、御霊様たちがみんなそのここに御霊の神をお祭りをしとるけれども、ね、神様のいわばここで言う神になることを楽しみとか、また神になっておられるとも思われません。ただ、やはり御霊様なのですから、ほんとに御霊の神としての御霊の位も、一段一段と進まれると言うことは。
 遺族のもの、残っておる私達がです。その御霊の徳を力を付けてさし上げる、そういう働きをするのが、御霊のお祭りです。いわゆる御霊が力を受けられる、御霊が一段と、御霊の位が進まれる、そのために真心いっぱいのそれこそ家族中での真心、先祖に対する、思いを込めさせてもらうところにです、御霊の力が付いてくる。
 所謂御霊が本当の御霊の神としてのおかげを頂かれ、御神格も受けられるようなひとつおかげを頂いてもらわなきゃなりません。そういう意味合いで、今日の御霊のお祭りは、ここにご縁を頂いておる全信奉者、もう打って一丸になってです、ね、その今日のお祭りにあたらして頂かなきゃならん、お参りさして頂かんやならんと思うのでございます。
   どうぞ。